紅の豚.タイトル
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紅の豚の時代の史実

第一次大戦

1914〜1918年にかけて戦われた世界規模の戦争。きっかけは1914年6月28日オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントがボスニアの首都サラエボでセルビア人民族主義者でセルビア民族主義組織「黒手組」の一員ガブリロ・プリンチプにより暗殺されたサラエボ事件。
元々この地域は民族的な問題を抱えていた。多民族、他宗教、多言語で形成されていたオーストリア=ハンガリー帝国は台頭するスラブ人の民族主義に深い疑いと憂慮を持って見ており、1912〜1913年にかけてのバルカン戦争で隣国セルビアの領土が約2倍になったことを警戒していた。一方、セルビアの民族主義者は、オーストリア=ハンガリー帝国の南部は南スラブ連合国家に吸収されるべきだと考えており、この民族主義的政策は、自らスラブ人の守護者を任ずるロシアにおいて一定の支持を与えていた。オーストリア政府や軍は、帝国南部におけるセルビア人民族主義運動が帝国内の他の民族グループへと伝播し、さらにロシアが介入する事を危惧していた。
6月28日に発生したサラエボ事件に対し、オーストリア=ハンガリー帝国のレオポルド・フォン・ベルヒトルト外相は懲罰的な対セルビア戦を目論み、7月23日セルビア政府に10箇条の最後通牒を送付して48時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビア政府はオーストリア=ハンガリー官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き、最後通牒の要求すべてに同意したが、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日国交断絶、7月28日にセルビアに対し宣戦布告が行われた。
各国はドイツ・オーストリア=ハンガリー・トルコ・ブルガリアの同盟国と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の2つの陣営に分かれ、後に日本、イタリア、アメリカも連合国側に参戦した。当初、それ程長引かないと思われていた戦争だが、機関銃等、兵器の攻撃力の激増により、塹壕を掘りながら陣地を進める戦術、さらには敵塹壕の後方からの重砲によって攻撃する塹壕戦が主流となり戦線は膠着する。戦争の長期化は交戦国に国民経済を総動員する国家総力戦を強いることとなり、それまでの戦争をはるかに超える物的・人的被害をもたらすことになる。国力に劣る同盟国は、長期戦により経済が停滞。1918年に入るとトルコ、オーストリア=ハンガリーなどが降伏し、1918年11月にドイツのキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は退位に追い込まれ戦争は終結した。足かけ5年にわたった戦争で900万人以上の兵士が戦死、またこの戦争によって当時流行していたスペイン風邪が世界的に伝染して猛威をふるい、戦没者を遥かに上回る数の病没者を出した。
1919年のパリ講和会議により大戦後の世界体制、ヴェルサイユ体制が確立する。結果、多民族国家であったオーストリア=ハンガリー帝国は帝国内の地域がこぞって独立し従来の四分の一にまで領土を減らし、600年以上に渡って君臨して来たハプスブルク家が追放された。オスマン帝国もイギリスとフランスにより多くの領土を減らされた。ドイツは多額の賠償金を迫られ、皇帝家であるホーエンツォレルン家を始めすべての王侯貴族が追放された。また賠償金問題、領土問題でルール問題、ポーランド回廊問題が生じ、これが第二次大戦への禍根を残すことになった。第一次大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊した。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の4つの帝国が分解した。ホーエンツォレルン家、ハプスブルグ家、オスマン家、ロマノフ家の4つの王家は中世以来の権力を持っていたが、この戦争中もしくは戦後に没落した。戦争の原因と結果をめぐる多くの戦後処理の失敗により、イタリアではファシズム、ドイツではナチズムが台頭し、第二次大戦を生む原因を作った。またこの戦争中にロシア革命が起き、20世紀に社会主義が世界を席巻する契機となった。アジアでは、オスマン帝国が近代的な民主主義国家トルコの基盤を生みヨーロッパでは、民族自決の名の元、新しい国家チェコスロバキアとセルビア・クロアチア・スロベニア王国(後のユーゴスラビア)が誕生し、ポーランドが復活した。

当時のイタリア

当時のイタリアは現在のような共和国ではなく、サヴォイア家の国王が統治する王国だった。国旗も現在の国旗とは違い現在の緑・白・赤の三色旗の中央にサヴォイア家の紋章(青い枠、赤地盾に白い十字)が入っていた。
第一次大戦開戦当初、ドイツ・オーストリア=ハンガリーと三国同盟と結んでいたイタリアだが、オーストリア=ハンガリーと領土問題で対立しており、仏伊協商を理由に中立宣言を出す。しかし、1915年、オーストリア=ハンガリーとの領土問題の地「未回収のイタリア」と呼ばれるオーストリア=ハンガリー領土の一部、及びイストリア、ダルマチアの割譲を条件に連合国側とロンドン秘密条約を結び、三国同盟を反故、オーストリア=ハンガリーに宣戦布告し連合国側につく事になる。しかし、オーストリア=ハンガリーのみに対しての宣戦布告は、戦争に乗じた領土獲得の意図は明らかであり、露骨な自国利益第一主義の外交は国内に批判の声も強く、イタリアには他国のような挙国一致体制ができず、兵士の士気も低かった。
第一次大戦の戦勝国となったイタリアだが、1919年のパリ講和会議では「回復されざるイタリア」の獲得が認められただけでフィウメ市の併合などは拒否され、領土拡大要求の多くを退けられたヴェルサイユ体制(第一次大戦後の世界体制)に不満を持っていた。
もともとイタリアは資源に乏しく、経済基盤が弱かった為、戦費のほとんどを外債でまかなっていた。その為、戦後莫大な債務を負って財政危機に陥る事になる。また産業も不振に陥り、失業者が増大し、食料等の生活必需品が不足して激しいインフレにみまわれた。インフレによる物価の高騰は庶民生活を直撃し、都市では賃上げを求めるストライキが、農村では土地占拠運動が激化するとともに、社会主義運動も発展した。
こうした不穏な情勢下で、ファシズムが台頭する。
ファシズムの語源となるファッショとはイタリア語で束・団結の意味で、ファシズムとは国家・民族の発展を最高の目的とし、個人はその目的の為、国家・民族に従属し奉仕すべきものと考える全体主義と呼ばれる政治思想(政治形態)であり、そこでは、個人の基本的人権や自由は否定され、国家や社会全体の利益が優先された。その事により、国民には指導者に対する絶対の服従が強要され、反対者には過酷な弾圧が行われた。
ベニート・ムッソリーニは1919年にミラノで「戦闘ファッショ」を結成し、労働・農民運動を襲撃し始めた。初めは注目されなかったが、革命運動の激化に危機感を募らせた資本家・地主階級が彼らに莫大な資金を提供し、軍部・警察も彼らの運動を容認するようになった。これに力を得た戦闘ファッショは、1921年初頭から「ファシスト懲罰遠征」と呼ばれる、労働組合・社会主義政党とその活動家に対する暴行・殺人・放火などを公然と行った。同年11月、戦闘ファッショは「ファシスト党」と改称され、全国に支部と軍事組織がつくられた。
1922年、ムッソリーニは政権掌握を実現するための実力行使、ローマ進軍を起こした。ファクタ首相は戒厳令を発して対処しようとしたが、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は署名を拒否し、ムッソリーニに組閣を命じたため、ムッソリーニ内閣が成立した。さらに、1926年には議会でファシスト党以外の全党を解散させ一党独裁制を築き、1928年にはファシスト党の最高議決機関であったファシズム大評議会を正式な国家の最高機関と定め一党独裁制は完成した。
1929年ニューヨーク株式市場(ウォール街)の株価大暴落に端を発した世界大恐慌が発生。ファシズムは 更にその傾向を強める事になる。

当時のユーゴスラビア

ユーゴスラビアの前身となるセルビア・クロアチア・スロベニア王国の成立は1918年。それ以前のユーゴスラビアの領土は、オーストリア=ハンガリー王国の一部とセルビア王国、モンテネグロ王国であった。

第一次大戦中の1917年オーストリア=ハンガリー帝国から政治亡命した一群のクロアチア人、スロベニア人、セルビア人で結成された政治組織ユーゴスラビア委員会とセルビア王国は南スラブ人統一国家樹立を合意した「コルフ宣言」を発表する。
スラブ人とは、スラブ語を使用するという大きなカテゴリーの民族の事であり、ロシア人・ウクライナ人・ポーランド人・チェコ人・ブルガリア人なども含まれ、南スラブ人は、主にバルカン半島周辺に居るボシュニャク人、セルビア人、モンテネグロ人、クロアチア人、スロヴェニア人、マケドニア人、ブルガリア人などのことを指す。ユーゴスラビアとは「南スラブ人の土地」の意味である。
第一次大戦中の1916年1月、モンテネグロはオーストリア=ハンガリー軍に侵攻をうけ同盟軍に占領された。しかし、セルビア軍がモンテネグロをオーストリア=ハンガリーから解放。モンテネグロはセルビア軍に管理された。
1918年に第一次大戦が終了。1918年11月29日にセルビア王国はモンテネグロを併合。1918年12月4日にセルビア人、カラジョルジェビッチ家の国王を君主とする王政国家、セルビア・クロアチア・スロベニア王国の樹立を宣言する。
新しい王国の下では、地方行政の区分けは、セルビア人やクロアチア人と言った民族の違いによる地域の区分ではなく、自然の川や分水嶺によって設定された。それに加え、中央集権国家を目指した王国はベオグラードのセルビア人が中心になって運営されたたため、クロアチア人の不満は大きいものとなった。
国王アレクサンダル1世は、クロアチア人の抵抗運動を抑える為、セルビア人の専制権力を強化。憲法を停止して独裁制を布告し、1929年10月3日ユーゴスラビア王国と国号を変更した。
1931年に新憲法を布告し、セルビア主義と国王独裁を強めた。


スラブ人というスラブ語を話すといった意味での民族のくくりは大変難しく、結局ユーゴスラビアは多民族国家と言わざるをえません。1990年代、ユーゴスラビア国内では民族間の激しい紛争が勃発します。この紛争が本作の方向性を転換させたことに少なからず影響を与えたと考えられます。この紛争でユーゴスラビアは解体した。
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